第4号 3−6ページ掲載記事      #1 #2 #3 #4 #5 #6(2002.新春)

浅野流政治
の本質は何か
 
 
  「宮城県人というのは伊達政宗しか誉めないんですね。そのほかには人材はいないということなんでしょうか」−−単身赴任者の多くは、これに近い感想を抱いているらしい。事実、小紙も県民の口から政宗とベガルタ仙台以外に、誉め言葉や評価の類を聞いたことがない。宮城県民はよほど人間嫌いなのか? あるいは本当に宮城県には人材がいないのか? 
 


 人を誉めないということでは、かくいう小紙がそうだろうと、お叱りを受けそうである。「売れもしない新聞をつくって、浅野県政はじめ批判ばかりしているじゃないか」と−−。
 だが、小紙が批判しているのは、すべて公的機関・公人である。媒体の大小を抜きにすれば、曲がりなりにも、小紙は報道機関の一つである。報道機関が公的機関や公人の「太鼓持ち」をするなら、それは「報道」ではなく「幇間」である。
 それに誉める点があるならば、躊躇することなく誉める。評価に値するところがないから、誉めようがないし、書くのに苦労もしているのである。
 それはさておき、宮城県人が概して他人を評価しないのは事実である。仙台で生まれ育った、ある経営者もこう語るほどだ。
 「俗に『出る杭を打つ』というけれど、これは宮城県民の気質を表したものかも知れないね。横並び意識が強いというよりも、周りで誰かが成功することに嫉妬を感じるんだろうな。それに、言いたいことがあるなら、相手に直接言えばいいのに、表向きは何一つ不平がないような顔をして、陰でコソコソ中傷する。ひどい奴になると、梯子を掛けておいて、昇ったと思ったら外そうとするような振る舞いをする者も、中にはいる。これが同じ県民かと思うと、がっかりするよ」
 これでよく周りとうまくやっていけるものだと不思議に思うが、「なに周りもそういう気質の持ち主が多いから、お互いの腹の内はよくわかってつき合っているのさ」と、まるで笑い話のようである。
 では、何故こんなへそ曲がり的な気質になったのだろうか。恐らく、その根拠は人類学者でも解明できないだろう。だが「定説的な俗説」として、次のような通説がまかり通っているようだ。
 「日本の多くがそうであるように、宮城県も農耕民族だ。しかも土地は肥沃であり、災害も比較的少ない。食べるに困らないわけだ。そのため、ことさらハングリーになる必要がないし、改めて人を育てることも不要だった。強力なリーダーがいなくともやってこれたし、むしろそうしたリーダーが出ると、自然的に発生した調和が、統率という新たな締めつけによって乱されることになり、逆に嫌がったろう。それが変な横並び意識になり、出る杭を打つようになったと思われる」−−とは地元経営者の弁である。
 しかし、仮りにこうした気質だとしても、人材を評価しないというのでは、あまりにも度量が狭すぎると言わざるを得まい。人材がいないのならまだしも、実は宮城県は多士済々の逸材を輩出している。ただ、これまで評価してこなかったために、誰も見向きもしなくなったし、名前すら忘れられてしまっている。大人はそれでもいいだろうが、未来を預かる青少年には、郷土愛も含めて、偉大な先達の名前だけでも知っておいてもらいたいと思うのは、小紙だけではあるまい。

 では、どんな逸材を宮城県が生んでいるか。紙数の関係上、すべてを取り上げることはもちろんできない。そこで経済人に絞って、それもあまり知られていない人物を紹介してみたい。(編集部注/存命・物故は不問とし、肩書は全盛時のものとした。敬称は略す)
 「企業再建の神様」と讃えられた早川種三は仙台出身。慶応大学時代は放蕩と山登りに明け暮れた落第生。それが後年には日本特殊鋼、興人などの倒産会社を次々に建て直した。無私無欲で、再建後はサッと立ち去る気骨の持ち主だった。
 財閥系では日経連会長・三菱鉱業セメント会長の大槻文平が丸森町出身。石炭から石油へとエネルギー転換が進み出した時代に労務を担当。15の炭鉱を5つにし、3万人の労働者を5千人に整理。「首切り文平」と呼ばれたほど。だが、身を切る思いだったのは本人自身。この逆境で不屈の経営者精神を学び、それが三菱グループ、財界での指導者として押し上げた。
 一方、住友不動産会長の安藤太郎は七ヶ宿町生まれ。国土審議会の会長も務め「東北は開発の重点地域。東京に集中させないで、地方分散を図るとともに、民間活力を利用すべきだ」と国土の均衡ある発展が持論。また「東北人は互いに足を引っ張り合う嫌いがある。団結して努力しないと」と苦言を呈す。
 武田豊・新日鉄社長は高清水町の出身。趣味は「人間学」で、40代半ばにして、脳生理学の権威である東京大学の時実時彦博士の門を叩く。この時実理論を企業経営・人事管理に活用した「武田大脳生理学」を打ち立て、鉄鋼不況時の新日鉄を見事に再生させた。
 「女性産業」に携わった人物もいる。ワコールの創業者・塚本幸一が仙台市生まれなことはあまり知られていない。「賤業」と蔑まれた女性下着業にあって、自ら商品を企画し販売。今やトップメーカーに育て上げた。起業家の先達的存在である。
 同じく、資生堂の岩崎豊壽は大郷町の生まれ。副社長時代、それまで国内の一化粧品メーカーだった資生堂を、世界3位の企業に成長させ「資生堂の中興の祖」と言われる。
 ICテスター(半導体試験装置)の分野で、世界一のシェアを誇る電子計測器メーカーのアドバンテスト。社長の大浦溥は塩釜市出身。「人手不足の時こそ、よい人材を確保すべき」が信条。その結果、技術に営業の視点を加えたバランスよい経営体系を築き、世界的な企業に育て上げた。
 経済人とは言えないかも知れないが、宮城県人にとって忘れてはならない人物が一人いる。仙台市出身で、県農業センター所長の末永喜三だ。古川農業試験場時代、命じられたのが稲の育種。その苦労の末に生み出されたのがササニシキ。「良質米の女王」と呼ばれるササニシキの生みの親である。「日本はコメづくりの技術で、外国に負けてはいけない。コメは日本の文化だから」という言葉は説得力がある。
 異分野の逸材をもう一人。涌谷町出身の評論家・扇谷正造を取り上げないわけにはいかない。朝日新聞社で『週刊朝日』の編集長時代、それまで数十万部だった部数を、7年間で100万部にまで伸ばし、今日の週刊誌時代の先駆者的存在となった。その秘訣は企画の面白さと視点のユニークさに尽きる。「空気に爪を立てること。社会の底流に潜む問題に爪を立てる意識がなくては、ジャーナリズムではない」が自らの哲学。このことはジャーナリズムのみならず、教育や企業経営における市場調査・商品開発にも共通しよう。

 これらの人物以外にも物故者・存命者を問わず、逸材はまだまだいる。まさに「野に偉人あり」と言える。
 人生はどんなに長くとも100年は生きられない。時間はあるようで短く、自ら体験できることは限られている。ならば、先達の知恵を己の人生に生かして、実りある人生を送る方が賢明である。このことは企業経営・行政運営など、すべてに言えるだろう。しかも、この景気低迷の八方塞がりの状況にあることからすれば、多くの知恵がほしいところである。
 人材は東京にばかりいるのではない。身近なところにも存在している。問題は、その人物を逸材と見るか、凡人と見るかであり、自らの「眼力」にかかっている。
 宮城県出身の人材がどれほどいて、どのような功績を残してきたのか。この不況の時代をきっかけにして、今一度見つめ直してみるべきだろうし、そこから新たな発見・ヒント・ビジネスチャンスのタネが掴めるような気もするのである。

 
 
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