| シリーズTOP |
| | | 旧石器発掘捏造事件」の本質とは何か |
|
昨年11月に明るみになった「旧石器発掘捏造事件」は、その後、藤村新一・東北旧石器文化研究所前理事長が東北、北海道、関東の20数カ所の遺跡でも捏造したことを告白。これにより、これまでの日本の前期旧石器時代研究は根底から覆されることになった。 この事件を報じた毎日新聞の取材と記事は、日本のジャーナリズム史に残る一大スクープであり、藤村氏の行為は許すことのできない”文化的犯罪”である。 だが、一連のマスコミ報道を見ると、あまりにも藤村氏個人のみを追及しすぎてはいないだろうか。事の本質はそうではあるまい。問われるべきはむしろ、東北旧石器文化研究所の姿勢である。 「神の手」と言われようが、藤村氏は単なる発掘の作業員にすぎない。古代史を専門に学んだことはなく、学術論文を書ける人でもなかった。その藤村氏が掘りあてたという石器を、分析や実証もせずに「歴史的な遺産」として報道発表してきた研究所の鎌田俊昭理事長と梶原洋理事長の態度こそ追及されるべきであり、藤村氏が捏造を重ねることを許した最大の要因であろう。しかも両氏は古代史の専門家であるにも関わらず、報道発表はするものの、発掘論文を記していない。このことは考古学研究者として、あるまじき態度である。 加えて、鎌田、梶原両氏が犯した最大の罪は、考古学を「宝探し」にしてしまったことである。発掘はギネスブックに載ることを競うために行なっているのではない。古代人がいつごろから存在し、その生活・行動様式とはどのようなものだったのかを調査していくものである。そのため発掘の本質とは、ことさらに遺物を探すことはしない。 古代人の暮らしぶりを現す家屋の跡などの遺構の調査を第一義とし、石器などの遺物はその傍証にするという考え方なのである。 また、発掘した場所から遺構や遺跡が見つからなかったとしても、その結果を素直に受けとめる。たまたまその地点に古代人の痕跡がなかっただけであり、ひょっとしてそこからわずか先に遺跡があるかも知れないからである。だからこそ遺跡調査では丹念さが求められる。逆に言えば、藤村氏のように掘ればことごとく発見するなどということは間違ってもあり得ないことなのだ。 鎌田、梶原両氏の場合、こうした考古学者としてあるべき心構えが微塵もないし、藤村氏が頻繁に新発見することに疑問を持たなかったとしたら、古代研究者としては失格であろう。ちなみに言えば、今回の事件について、両氏が東北旧石器文化研究所としての責任の取り方など、全く釈明しないのはどういうことだろう。マスコミが問うべきことは、藤村氏の追及より、むしろこのことではないだろうか。 そしてマスコミもまた、発掘報道では何ら疑うことなく記事にしてきた。この姿勢も問われるべきものである。日本考古学会は今回の事件に際して、今後できうる限りの検証をしていくという。その結果を報道するのはマスコミの使命である。継続的な紙面協力が望まれるところである。 |
| 創刊第2号
(2001.11) 6ページ 掲載記事
|