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私が宮城大学長を退任してから、はや一年がすぎた。異常な多忙さに追われて完全な単身赴任生
活を強いられた四年の任 期がようやく終わったの だし、年齢も七十の半ば に達しようとしていたわ
けだから、家族と友人の待つ東京へ帰ってしまうのが誰から見ても自然な身の振り方だった。だが、公舎を引き払った私はそのまま東京へ帰らず、仙台にも新たに居を構え、住民票もそこに移し、東京と頻繁に行き来する生活を選択した。
「仙台でなにをしてい
るの?」という東京の友人に質問されると、すかさず「東北の独立運動さ−」と答えて相手を笑わせてきた。だいたい週二〜三日はいる仙台でも、講演とか会議とかやる仕事は多様にわたり結構忙しい。だが、それらを集約して、残り少ない人生の約半分を仙台に住む目的はと自問すると、「東北の独立」ということは今の私にとって、それを聞く人々が感ずるほど冗談ではないのである。
父親の仕事の関係で名古屋に生まれ、中学三年の時東京に転居したまま約六十年を東京で暮らした私だが、心は常に東北にあった。さかのぼるかぎり、盛岡が父祖の地だからである。昔から「お故郷は?」と聞かれて、名古屋とも東京とも答えたことはない。常に誇りを持って「盛岡です」と答えてきた。実は盛岡は住んだこともないし、大学生になるまでは行ったこともなかった、にもかかわらずである。
終戦直後の頃、東京も仙台も日本中の都市という都市が戦災で焼け野原となっていたのに、昔懐かしい日本の街並みの残っていた盛岡の土をはじめて踏んだ時の感激は、一生忘れられない。先祖の墓にお参りしたあと、不来方の城跡に上り、石垣に腰掛けて美しい盛岡の街を遥かに眺め、次々と啄木の歌を口ずさみながら滂沱と涙を流しつづけた多感な青年時代のその日は、まるで昨日のことのように新鮮にわが胸に蘇ってくる。
宮城県から県立大学設立への協力方を要請された時、何のためらいもなく応じたのは、「東北の都」である仙台に素晴らしい大学を創りたかったからに他ならない。しかし宮城大学長になってみてはじめて私は、東北への長い熱い思いに比して、私がいかに東北に関して無知であったかを反省させられた。そして私なりに懸命に勉強したが、勉強するにつれて私は、中央権力との関係における東北人の不甲斐なさに驚きと怒りを募らせた。田村麻呂の蝦夷征伐から戊辰の役までの約千年間に、東北は中央権力によって実に五回にわたって故なき攻撃の対象とされながら、只の一回も反撃勝利を収めえず、屈辱的支配に服した。維新から今日までの百数十年間、わが国は日清・日露戦争および第一次大戦後と、太平洋戦争後と二回にわたって工業化による目覚ましい経済発展を遂げたが、その間東北は常に「食糧と労働力の供給基地」という裏方に回され、不当な貧しさに甘んじた。私はあえて中央権力への東北人の反感を煽るつもりはない。しかし「二十一世紀の東北」に関するいくつかの構想を読むと、そのどれもが私にはひどく物足りなく思えて仕方がないのだ。なぜか? それらには例外なく、直接的にせよ間接的にせよ、歴史的にはあれほどこけにされてきた中央権力へのいじましいまでの依存心がどこかに感じられるからだ。私は「東北の独立」を視野に入れた自主的な東北の開発を、断然志向したいのだ。国土面積や人口のみか経済力や歴史の古さまで考慮すると、東北に匹敵する国はオーストリアだろう。人口こそ六割だが、この国は国土面積も一人当たり所得も東北とほぼ同じ。しかし、ウイーンと仙台、ザルツブルグ音楽祭と青森ねぶた祭、アッヘン湖と十和田湖、インスブルックと蔵王、ドナウ河下りと最上川下り−と比較すれば、比較すべき対象のない松島を加えても、今のところ国際的な価値において、東北に勝ち目はない。
(市町村はともかく)府県は事実上日本政府の出先機関にほかならないから、東北を七県によって構成された一地域と考えるかぎり、東北はこれからも経済的には日本国中最も恵まれることのない辺境に甘んじさせられるのが歴史的運命に思える。それより、一時の空しい豊かさの後にいま早くも頽廃と混迷の道を急ぐ日本国と決別し、東北人の総力を結集してもっと健全で、国際的にももっと魅力のある国家の建設を目指すべきだ。
先日私は「東北産業活性化センター」主宰の講演会で、三百人の聴衆を前に『独断と偏見の東北活性化』と題し上記の私見をやや詳しく披瀝した。そしてその実現のための具体策として、「東北の都」としての仙台の表玄関仙台駅西口を「渋谷」、同東口を「秋葉原」というイメージ・モデルとする開発の必要性を訴えた。少なくとも私にとって、「東北の独立」は今や幻想でもなければ願望でもなく、残りの人生をかけた一大事業なのである。
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